花見に梅?
いやいや、花見と言えば桜じゃない!
半信半疑に思いつつも、なぜだか妙に気になって、後でこっそり調べてみると、なんと、本当にかつては花見に梅を見ていたらしいのです!
今回は、この驚きの事実について、私の調べたことをご紹介して行きます。
最後まで読んでいただければ幸いです。
花見の起源。奈良時代は梅を見ていた!
寒さも和らぎ春の気配を感じてくると、思い浮かべるのはやっぱりお花見!
ぽかぽかとした陽気に包まれながら、家族や仲間と楽しむ時間は格別ですよね。
ところでみなさん、花見が行われ始めたのは、一体いつからかご存じでしょうか?
花見の文化が芽生えたのは、なんと遠い古代、奈良時代頃にまで遡ります。
詳しく見ていきましょう!
花見の始まり
奈良時代(710~794年)、花見は貴族たちの間の行事として始まりました。
その頃の花見の主役は、桜ではなく梅でした。「花と言えば梅」とまで呼ばれた時代です。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]実は『万葉集』の中でも、梅を詠った和歌は桜よりもずっと多いんですって![/voice] [voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-7.png” name=”かな” type=”r”]梅がいかに人気だったかうかがえるわね![/voice]今でこそ花見と言えば桜ですが、どうして当時は梅が人気だったのでしょうか?
梅は、当時遣唐使によって、中国から伝来してきた花でした。
香りが高く、美しい梅は、貴族たちの間でもてはやされました。
加えて、外国からの珍しい品である梅を愛でることは、教養人としての風格を持たせる、一種のステータスでもあったのです。
花見は、そんな梅を見ながら、歌を詠む行事として、貴族の間で流行し始めました。
一方、桜の人気はというと?
梅が人気を博した奈良時代ですが、それでは桜はまったく注目されなかったのでしょうか?
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-7.png” name=”かな” type=”r”]いいえ、そんなことはなかったみたい![/voice]日本のあちこちに自生する桜は、実は農耕と深い関わりを持っていました。
春になり、種をまく頃に咲く桜は、穀物の神様が宿るとされ、農民の間でとても大切にされた花だったのです。
このことは、「サクラ」という名前からもうかがわれます。
「サ」とは「サ神様(田の神様)」のことで、「クラ」とは「蔵(神様の座)」の意味です。
この「サ」と「クラ」とを組み合わせた「サクラ」とは、「田の神様の降りて来る座」という意味になります。
農民たちの間にとって桜の木は、田の神様の降りて来る大切な木でした。
そして彼らは貴族たちとは別の形で花見を行っていました。農民にとっての花見とは、酒や食べ物で神様をもてなし豊作を願うという、宗教的な行事だったのです。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]現代の私たちが桜を愛でるのも、実は古代の感性に由来しているのかもしれないわね。[/voice]桜が花見の主役となるのは平安時代から!
平安時代(794~1185年)になると、遣唐使が廃止され、国風文化が花開きました。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]日本独自の物に注目が集まり始めた時代ね。[/voice]この頃から、「花と言えば桜」の時代へと移り変わっていきます。
この時代の和歌を見ると、その変遷がよく分かります。
『万葉集』の頃と打って変わって『古今和歌集』には、梅の歌が18首に対して、桜を読んだ歌は70首にも上ります。
この桜ブームに火をつけたのは、嵯峨(さが)天皇による花見行事、「花宴の節(せち)」でした。
812年、京都の「地主(じしゅ)神社」を訪れた嵯峨天皇は、そこに植えられた桜の美しさに心を奪われました。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]牛車を2度3度と引き返させたことから、「御車返しの桜」と呼ばれるほどの美しさだったそうよ。[/voice]とても気に入った、嵯峨天皇は毎年この桜を献上させ、鑑賞しながら歌を楽しむ「花宴の節(せち)」を開き始めました。
これがきっかけで、花見の主役は梅から桜へと完全に移り変わっていきました。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-7.png” name=”かな” type=”r”]ちなみに、地主神社は清水寺の近くにある神社で、縁結びの御利益があると有名よ![/voice]画像引用:縁結び祈願 恋愛成就 京都地主神社
POINT豆知識:紀貫之と梅の花
平安時代の歌人紀貫之(きのつらゆき)は、『古今和歌集』にこんな歌を残しています。
「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」
香りの高い花と言えば梅のことです。
この歌は、遣唐使が廃止され、世間が「花と言えば桜」の時代に移り変わって行く頃に詠まれた歌でした。
平安時代なのに、どうして「花=梅」と詠んでいるのでしょう?
この歌で特徴的なのは、「梅の香り」を「昔」や「ふるさと」と一緒に詠み込んでいるところです。
もしかすると、紀貫之は世間の移り変わりを見ながら、人気の落ちた梅の香りを懐かしんでいたのではないでしょうか。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]そう考えると、なんともノスタルジックでいい歌だなあと感じますね。[/voice]ちなみに、紀貫之は同じ『古今和歌集』に、
「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」
という歌も残しており、こちらは「散る」という言葉から「桜」のことを歌っていると分かります。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]梅も桜も愛した紀貫之、さすが当時一流の風流人ね![/voice]
花見はいつから人々に広まっていったの?
古代、貴族の遊びとして楽しまれた花見。
それが庶民の間にも広まっていくのは、一体いつからなのでしょうか?
お次はこのことについて解説していきます!
花見が広まり始めたのは中世から
平安時代が終わりを告げて、鎌倉から室町、やがて戦国時代へと突入します。
貴族たちの権力に陰りが差し、代わって武士勢力が台頭しだします。
その頃から、花見は貴族だけの遊びではなくなり始めました。
鎌倉時代後期、吉田兼好(よしだけんこう)によって書かれた『徒然草』には、「片田舎の人」の花見の様子を記した文章が見られます(137段)。
このことから、すでにこの頃地方の人々にも花見の文化が広まっていたことがうかがえます。
秀吉ら武士たちによる「吉野の花見」「醍醐の花見」
豊臣秀吉天下の安土・桃山時代、秀吉によって武士たちを集めた大きな花見が開催されました。
それが、「吉野の花見」と「醍醐(だいご)の花見」です。
「吉野の花見」は、1594年、奈良の吉野山で開かれました。
吉野山と言えば、日本屈指の桜の名所です。
画像引用:ようおこし、奈良県 吉野山観光協会
徳川家康や前田利家など、そうそうたる面子が呼ばれ、総勢5000人もの参加者が集まった大々的な花見でした。
戦いに明け暮れていた武士たちが、歌や茶を楽しみ、能を舞う宴が、5日にわたって繰り広げられます。
天下統一を成し遂げた後のこの豪勢な花見は、平和な世が訪れたことを告げると同時に、秀吉の権勢を世間に知らしめるものでした。
さらにその4年後、秀吉晩年の1598年には「醍醐の花見」が開かれました
こちらは主に秀吉の近親の者を中心として催された花見で、京都の醍醐寺で1日だけ開かれました。
画像引用:世界遺産 京都 醍醐寺
息子の秀頼や正室である北政所ねね、側室の淀殿など、秀吉の近親や諸大名の女中ら1300人を集めたこの花見は、秀吉の晩年を飾る豪華絢爛なものでした。
茶会や歌会はもちろんのこと、女性には2度のお色直しがなされて、衣装代だけでも現在の40億円もの費用がかかったとされています。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-10.png” name=”かな” type=”r”]けれど、残念ながら秀吉はこの花見の5ヶ月後に亡くなっているのよ。[/voice]出し物が盛りだくさんな、秀吉によるこの大宴会スタイルの花見は、現在の花見の様式を形作ったものと言えるでしょう。
江戸時代になると庶民の間でも花見が人気に!
徳川家康による天下統一後、江戸時代には平和な世が訪れます。
世の中が平和になるにつれて、庶民の間でも花見遊びが広まり出します。
[arve url=”https://www.youtube.com/embed/Gh7d84nN1XQ” mode=”normal” /]落語でもはじめに紹介されていますが、江戸の桜の名所と言えば飛鳥山。
飛鳥山は、東京都北区にある小高い丘で、現在も「飛鳥山公園」として、人気の観光スポットになっています。
[googlemaps https://www.google.com/maps/d/embed?mid=1wOmwQXMzTVCW7vegnU5_eR4jlb8&hl=ja&w=640&h=480]https://www.instagram.com/p/BxCKwSGnL7A/?utm_source=ig_web_copy_link
この地の桜は、8代将軍徳川吉宗によって植樹されたものでした。
それ以前、江戸の桜の名所と言えば、徳川家の菩提寺である上野の寛永寺でした。
けれどもここは、将軍家の菩提寺ということもあって、庶民が気軽に立ち入ることの出来ない場所でした。
春になると、花見を楽しみたくても楽しめる場所のない庶民の不満が募り、風紀の乱れることもしばしばでした。
そこで吉宗は、享保の改革の一環として、庶民が広く花見を楽しめる場所を作ろうと、飛鳥山に1270本もの桜を植えて、あらゆる人々に開放したのです。
これにより、花見は庶民の間でも、春の遊びとして完全に定着したのでした。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-7.png” name=”かな” type=”r”]落語を聞いてみると、花より団子のお花見のようだし、完全に今の花見とおなじよね![/voice]POINT豆知識:ソメイヨシノ
桜と言えばまず思い浮かべるのは「ソメイヨシノ(染井吉野)」の名前ではないでしょうか?
このソメイヨシノ、実は江戸時代の終わり頃にはじめて作られたものあることを、ご存じでしたでしょうか?
ソメイヨシノが作られたのは、江戸の染井村(現在の豊島区駒込周辺)というところでした。
当時、染井村には植木職人が多く暮らしており、ソメイヨシノは彼ら植木職人によって開発され栽培された、観賞用の桜だったのです。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]つまり、自然に自生している品種ではなかったのね。[/voice]ちなみに、「染井吉野」という名前は、桜の名所である「吉野山」にあやかってつけられた、売り出すためのブランドネームです。
それでは、平安貴族や秀吉が愛した、吉野山の桜は、一体何という桜だったのでしょう?
吉野山に自生する桜は、多くが「ヤマザクラ(シロヤマザクラ)」と呼ばれる種の桜です。
ヤマザクラは、同じ場所に生えていても、散る時期がそれぞれの木でばらつくことが多く、そのため長期にわたって花見を楽しむことが出来まるのが特徴です。
[voice icon=”http://yosiaa.com/wp/wp-content/uploads/2018/10/nigaoemaker-6.png” name=”かな” type=”r”]一瞬で散ってしまうはかない桜のイメージとは違っているわね。[/voice]みなさんが毎年花見に見る桜は、ソメイヨシノでしょうか?それとも、ヤマザクラ?
調べて見ればイメージが変わり、いつもと違った雰囲気を味わえるかもしれませんね!
まとめ
桜の歴史を追ってきましたが、いかがでしたでしょうか?
それでは、今回の内容をまとめます。
[box class=”pink_box” title=”まとめ”]- 奈良時代、花見と言えば梅を見ることだった。
- 平安時代になって、桜の人気が高まり始めた。
- 桜は農耕と深い関わりがあり、神様が降りてくる木として大切にされていた。
- 中世に入ると、花見は武士や庶民にも広まり始める。
- 秀吉は大きな花見を開き、現在の花見のスタイルを確立した。
- 江戸時代になると、吉宗によって庶民にも桜を楽しめる場所が出来て、ますます人気を高めた。
身近なことが、意外な歴史を持っていることを知るのは、驚きでもあり、またなぜかちょっぴり嬉しくもなるものですよね。
今年はいつもと違う気持ちでお花見が出来そうです。
みなさんも、古代のロマンを感じながら、どうぞよいお花見をお楽しみください!
[box class=”pink_box” title=”関連記事まとめ”] [/box]